TVクイズまる金必勝マニュアル

名人が教える150のノウハウ

©北川宣浩 1985
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7.あるクイズマニアの死


 クイズマニアで、その死がマスコミで報道された方が、ぼくの知っている限り唯お一人いらっしゃいます。その方、鳥居治光さんは、神奈川県葉山町でご住職をされている方でした。

お坊さんといってもまだ若く30を過ぎたくらい。彼のデビューは79年の第2回アメリカ横断ウルトラクイズで、成田のジャンケンで破れた際、当時の人気映画「八甲田山」の名セリフをもじって「ホトケは我を見放した」と、ジュズを握って天を仰いだので一躍有名になりました。奥様はなんと国際線のスチュワーデスをされていた方で、「(最初に訪れる)サイパンには電気がないからマッチがいる」とジョークを言われたとかで、鳥居さんはそれを信じて台所の徳用マッチをカバンに入れていたそうです。

鳥居治光

その後たいへん明るいキャラクターと、その職業のため珍重され、ぴったしカンカンやベルトクイズQ&Qなどの、クイズマニアではなかなか出れないキャラクター重視の番組に次々と登場。三枝の国盗りゲームのお坊さん大会にも出場しました。そのかたわらで、スタッフとしてクイズ番組の問題作りも始めていました。

 ぼくがお会いしたのは三枝のホントにホントの問題作りをしているときで、制作プロダクションにポツンと座っている、どこかで見たことのある人だなー、と思ったその人が鳥居さんでした。問題会議が終わってから喫茶店で、
「北川君、クイズに出るならもっとスタッフ受けするようにしなきゃ」
と、説教?をしてくれました。
 彼はまた、ウィンドサーフィンやハングライダーなどもする、極めて趣味の広い「生臭坊主」でしたが、これが命取りになったのです。82年の風の強い9月の夜、行方不明になったサーファーのニュースに彼の名がありました。

鳥居治光

 僧侶で、サーファーで、クイズマニアでクイズ作家でもあった鳥居さんは、特異なキャラクターでクイズマニアの人気者になり、そして特異な去りかたをしていったのです。
 思い出を込めて、合掌。

 

 

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