廃線前を訪ねて


かつて北海道の大地を駆け巡っていた、今は廃線となった国鉄ローカル線のありし日の姿。

©北川宣浩 2000
表紙

 

廃線前を訪ねて

私の写真趣味


私の写真趣味

北川 宣浩

写真の趣味は熟年男性に多く、コンテストには50代以上の男性の応募が多いという。もちろん女性にも若い人にも写真が趣味の人はおり、最近はプリクラやカメラ付携帯電話の影響で、意外と若い女性の写真ファンも多いと思う。
鉄道と写真の趣味はどこかオーバーラップするようで、同好の士の年賀状には、午年であろうが結婚しようが子供が生まれようが転居しようが、雪に埋もれかかった汽車の写真を送ってくる人がいる。会心の一枚なのであろう。
さて、私も年をとったせいか、押入れからニコンを取り出して、新しいレンズを買いたいな、撮影旅行に行きたいなと思うようになった。おやぢはある年齢までは子供の写真撮影に夢中になるのだが、子供がある年齢になると、親に写真なぞ撮って欲しくないのである。おやぢは被写体を求めて、どこへ行くのだろうか。


写真の原体験
子供のころ--昭和30年代前半(1950年代後半)--の写真の思い出は2つある。ひとつは、当時同居していた叔父が、撮影の前に露出計というものを私たちの胸元に当ててなにやら操作していたこと。もうひとつは、時々せがんで幻燈を見せてもらったことである。前者は、当時のカメラは露出計内蔵でなかったので、別途露出計で明るさを測っていたのだがその意味がわからず、子供心におまじないみたいで不思議だった。ちなみにこのときのカメラはのちのち大学生くらいになって知ったのだが、ニコンS2という名機だった。
幻燈は、今で言うスライドのことである。まだ珍しかったカラー写真はポジフィルムで、ネガは見かけなかった。夜、部屋を暗くし、スライドを幻燈機にかけてふすまの上部の白っぽいところに映し出して見ていたのである。いくつかの写真があったが、中でも動物園はお気に入りだった。しかしキリンの写真はなぜか怖く、見るたびに泣いたことを母から聞かされている。また、熊の写真は露出不足で暗かった。動物園の写真以外に何があったかは覚えていない。自分たちは写っていたのだろうか。今ならさしずめビデオ上映大会といったところだろう。幻燈は、家庭のちょっとした娯楽だった。

最初のカメラ、オリンパスペンEES
初めてのカメラは、小学校4年のクリスマスプレゼントだった。2学期の成績がほとんど5で、そのごほうびを兼ねて父が不二越カメラ店で買ってきてくれたのがオリンパスペンEESだった。1964年の暮れである。
オリンパスペンはハーフサイズのカメラで、35mmフィルムを使うが1コマが通常の24×36mmの半分、24×18mmという画期的なカメラだった。だから写真は倍とれて経済的であったがプリント代も倍かかり、果たして本当に経済的なのか、よくわからないカメラだった。EESとはオリンパスペンの何番目かの改良型の品番で、EE(エレクトリックアイ)と呼ばれた自動露出がついていた。露出計はレンズの回りにドーナツのように蜂の巣状のガラス部分があり、セレン光電池を使っていたため、詰め替えの電池は不要であった。ピントは目測で0.8m、1.5m、3m、∞くらいのステップだったと思う。フィルムの巻上げは今の使い捨てカメラ同様のギリギリとつまみを指の腹で回すタイプだった。ハーフサイズなのでカメラそのものが小さく薄く、ハンドストラップをつけて当時同居していた従弟などを早速撮りまくった。我が家は家族旅行の習慣はなかったので、遠足を中心に利用していたと思う。中学の修学旅行、京都・奈良はカラーネガで撮影した。カラーはまだ高価だったため友人は写さず、社寺仏閣だけを写したが、お気に入りのT野嬢だけはカラーで撮影した。
2001年、妹が身の回りを片付けていたらこのカメラがでてきた。高校のころに当時流行ったブラック仕上げのカメラのまねをして、黒く塗りたくってあった。てっきり捨てたと思っていたのだが、どうやら妹にあげていたらしい。妹もまったく覚えておらず、久々のご対面となったが、シャッターを押したが下りなかった。このカメラは暗くて露出不足のときはファインダー下部から赤いマークが出てシャッターが下りないのだが、暗くもないのにその状態になった。躊躇せずに捨ててしまったが、私にとって記念すべきカメラだったので、壊れていても手元に残して置けばよかったと、今になって後悔している。

念願のニコマートFTN
中学の2年生で同級となった小塚君は写真が好きで、アサヒペンタックスSPを持っていた。これは当時の中学生としては非常に贅沢な一眼レフカメラであり、うらやましかった。また、彼の話や彼が持ち込む写真雑誌などを見て、次第に写真の魅力を感じるようになって来た。小塚君は朝日新聞の写真コンテストに応募するのだと、そのときのテーマ「初夏」に従った写真をスライドで撮影し、応募前に見せてくれた。それはどこかの商店の前を野球帽をかぶった少年と母親が手をつないで通るのを後ろから撮影した写真だった。しばらくして新聞に載ったのは、誰かが撮影した、緑の水田で一休みする農民の姿だった。
中学生になってオリンパスペンではどうにも格好がつかなくなってきた。父にねだったが色よい返事はない。お金がないのだろうか。
そのころ中小企業という言葉を覚え、小さな設計事務所の専務だった父に「お父さんの会社は中小企業なの」と聞いて怒られたこともあった。その後、父も根負けしたのか自分でも必要と思ったのか、中学2年か3年のとき、ニコマートFTNを買って帰ってきた。そのときはうれしかった。父が神々しく見えた。 ペンタックスの旭光学工業より一流といわれた日本工学工業の一眼レフカメラなのである。カメラの箱を開けると、プンと真新しいカメラのにおいがした。
当時の最高機種は全手動のニコンFであったが、ニコマートはレンズをはじめFのほとんどのアクセサリーを使えたし、さらに露出はTTL測光で、レンズの絞りとシャッター速度リングをまわし、ファインダー内のメーターが真ん中に来るように調節すればよいものであった。しかも普通のカメラのシャッター速度はカメラ上部のダイヤルで合わすのに対し、ニコマートのシャッターダイヤルはレンズを取り付けるボディ部分に絞りリングのように回転させて合わせるユニークなタイプだったため、ファインダーを覗いたまま、絞りとシャッターを同じ感覚で操作できた。大喜びで、多摩動物園の遠足に持っていった。
そのころよく遊んだ友達といえば……森田クンはやはりカメラが趣味で、一緒に近所のお寺へ撮影に行った。なぜなら、写真家:入江泰吉の奈良の写真に憧れていたのだ。柳クンのお父さんはミノルタの技術者で、SR-T101を持っていた。
当時、安いカメラ店といえば新宿の淀橋写真商会が有名で、西口の八百屋の角を曲がるとある木造間口2間ばかりの小さな店先にはカメラがろくに並んでいなかったが、黄色い大きな紙に小さい文字で印刷された各社のカメラの価格表を見ると確かに安かった。店員にカメラ名を告げると奥からカメラを持ってくるのだが、買ったカメラと保証書の番号が違うこともあった。そのうちこのカメラ屋は八百屋を侵食し、どんどんと間口を拡げていった。いまだに拡げているようである。

高校では写真部に
70年代になり、高校では写真部に入ったが、先輩のカメラはミノルタでニコンを持っている人はなく、ニコマートは自慢だった。このころからフィルムの現像や引き伸ばしも自分でするようになった。写真部の機材や叔父の勤める大学の暗室を使っていたが自宅でもしたくなり、ヨドバシかさくらやでロール式の現像タンクを買い、さらにはD76(コダック社調製の現像液)を自分で調合するのだと、天秤や薬品まで買いそろえ、部屋を真っ暗にしてフィルムをタンクに詰め替え、風呂場で現像しては楽しんだ。科学者になった気分であった。
高校1年に大阪万博があり、父と二人で泊りがけで見学に行った。宿は取りにくかったので、父が日産ディーゼルの仕事で使っていたビジネス旅館に泊まった。「日産の北川で予約してあるからな」と、父は言い訳のように私に言った。宿の前にばあさまがいて、北川と名乗ると「ああ、日産の」と了解した。
久しぶりに父と風呂に入り、毛の生えた私は気恥ずかしかった。帰りは奈良に立ち寄り、憧れの入江泰吉先生よろしく、法起寺三重塔などを写した。ニコマートFTNは、ニコンの本皮製のカメラバッグに入れていった。これは12000円した高価なものでもちろん父が買ったのだが、カメラやレンズを入れる仕切りがあり、肩にかけてカメラを構えるとプロになったようで嬉しかった。しかし重たいのと、その後に発売された新しいカメラには電池とワインダー部分の出っ張りがあるので仕切りに収まらず、このカメラバッグは使えないものに変わっていった。その後、皮が経年劣化を起こしてショルダーベルトはちぎれ内部は粉をふき、散々な様相になったので、ついに2002年9月に燃えないゴミとなった。
写真部では夏合宿と称し、部員と引率の先生とで東北や北陸、山陰などへ撮影旅行に出かけ、このときの楽しかった体験が、旅を好きになったきっかけだと思う。
もうひとつ、写真部の大きなイベントに体育祭の写真速報があった。体育祭のスナップを撮影し、すぐに現像、引き伸ばしをしてパネルにして飾るのである。先輩たちは普通の方法でやっていたが、私が2年生になって部長になり、独自に調べて新聞社の速成写真の技術を仕入れた。
通常のフィルム現像は8分程度かかり、その後停止液に1分、定着液に8分ほど浸し、計17分程度かかるのだが、急速現像液や急速定着液という特殊な薬剤があり、これだと計5分くらいで処理ができてしまう。濡れたフィルムの乾燥はドライヤーを使う。引き伸ばしも同様に急速処理できる薬品を使うのだ。こうして当時としては考えられない速度で開会式の模様を速報し、皆から「もう写真ができている」と驚かれて悦に入った。その後の競技も続けて撮影していったが、部員のローテーションまで頭が回らなかったので、みんな疲れてきて「速報」はだんだんとまばらになった。

部室での雑談で「いずれピントが自動で合うカメラができるな」と言ったのを覚えている。同僚は「いやぁ、そんなことって……」と否定的だった。
探究心や時代を先取りする感覚はこのころからあったと思っている。

大学ではあえてコンパクトカメラを
大学では一転、自転車部に入った。時は70年代なかばである。夏春の合宿では遠方にサイクリングに行く。当然写真も撮りたいが、大型の一眼レフは足手まといになるし、第一壊すリスクが高い。そこでいろいろ調べてコニカC35FDを買った。レンズが大口径でコンパクトながら写りがいいこと、ストロボとの連動がよかったのが選択の理由である。当時のストロボはカメラのアクセサリシューに別付けし、当然オートではなく、ガイドナンバーと呼ばれる光量を示す値と被写体までの距離から絞りの値を割り出して撮影していた(フィルム感度も考慮する)。C35FDはピントリングと絞りリングが連動する仕掛けがあったのだ。それに、レンズシャッターなので500分の1秒の高速シャッターでもストロボが同調し、難しいといわれた日中シンクロも可能だった。ピントは二重像合致式という、ファインダー越しに二つに見える画像が、ピントリングを回して一致したときが合焦であった。
このカメラで東北、北海道など、さまざまなサイクリングの思い出を、さらにはウルトラクイズのツアーなどを撮影した。
高校のころ、自宅に暗室が欲しいと言っていた。大学2年のときに父が自宅を建て替えたが、時代はカラーに移り、カラーの現像引き伸ばしをするには、高価な機材や高度の技術が必要だった。さらに写真部でなくなったことから次第に一眼レフや自家現像から遠のいてしまい、暗室なんて作らなかった。現像用具は薬品を計量した上皿天秤を除き、すべて人にあげてしまった。

リトルニコン、ニコンEM
メインの一眼レフはずっとニコマートFTNだったが、広告会社に勤めてしばらくした1980年にニコンEMという小型の一眼レフが登場した。当時からニコンは大きく重たいことで有名で、オリンパスはハーフサイズの技術を生かして小型軽量の一眼レフを提供していたが、あのニコンがオリンパスをもしのぐ小型の一眼レフを出したのだ。しかも時代は一眼レフの自動露出化を迎えていた。露出をあわせるのは正直面倒だったので、それが自動になり、しかも巻き上げもオートワインダーで自動、小型軽量となれば大変魅力的である。私はクイズで稼いでいたので金はあり、ニコンEMを買ってしまった。
このカメラは汽車旅に最も連れて行ったはずである。今はなき鉄道路線の姿もニコンEMが収めた。一方、ニコマートFTNは使いづらくなり、H谷クンにあげてしまった。やはり思い出深いカメラだから再び私の手元においてみたい。その後ニコンEMも会社のおばさん(の息子)にあげてしまい、今となっては後悔ばかりである。物への執着はないほうだったが、年をとると物への執着も高まるようだ。
同じころ発売された別のカメラの思い出がある。絞り優先式自動露出のミノルタX-7は、週刊朝日の女子大生モデルでデビューした熊本大学在学中の宮崎美子が、木陰で人目を気にしつつ水着に着替えるテレビCMで一世を風靡した。胸元を見て彼女のファンになった私はポスターを買って飾った。X-7まで買おうかと思ったくらいである。今でも胸の谷間には弱い。週刊朝日は味を占めたのか、<女子大生モデル募集>を何度も行った。
当時付き合っていた清水K美子が「わたしの友達にかわいい子がいっぱいいる」というから、大栗Y美子や伊早坂N子などを撮影して週刊朝日に送ったら、大栗が見事に表紙を飾り、伊早坂は糸井重里氏のラジオ番組のアシスタントに選ばれ、1年間糸井氏と一緒にラジオに出演した。別口で撮影した伊藤M奈子はいまだに時々被写体になっている。さらに後日談があり、わが社に入社してきた阪井H子はこのCMを世に出した電通のプロデューサーの令嬢だったことがわかり、ことのほかかわいがって、一緒にゴルフに行ったりしたが、残念なことにお父さんが早世し、それが縁になったのか、電通系の会社に転職していった。

父のニコンF3
EMととき同じくしてニコンは最高級一眼レフニコンF3を世に出した。ニコンなのに自動露出、電子制御シャッターが驚きだった。当然欲しかったが、なんと父が買った。ニコマートを買ってきて以来の神々しさだった。しかしニコン独特の作りもあって、必ずしも使い勝手のいいカメラではなかったし、父の腕にはもったいなさ過ぎたと思う。
老眼が進んできた父への朗報は、ついにオートフォーカスカメラが出たことだった。まずコンパクトカメラで小西六写真工業がジャスピンコニカを出して、各社が後に続いた。一眼レフではミノルタカメラがα-7000を出し、市場を席巻した。そこへニコンはなんと最高機種であるF3のファインダーユニットを変えることでオートフォーカスを実現したのである。専用AFレンズを必要としたが、通常のレンズでもフォーカスエイドと言って、合焦時にはライトが点灯するのだ。このDX-1ファインダーは11万円もして欲しいけど手が出ない。それを、父が、本体に続いて買ってきた。どこに金があったのか、DX-1ファインダーを私に見せて自慢げな父の顔を覚えている。が、このファインダーをつけると頭でっかちで重心が高くなり、扱いはますます悪くなったし、専用のレンズまでは買ってこなかったので、所詮は手でピントリングを回して合焦をライトの点灯で知るだけのものだった。父もこのファインダーはあまり使わず、もっぱら通常のファインダーでピンボケ写真を撮影していた。

自動化の進んだニコンF401、F601
80年代もなかばとなり、ニコンもオートフォーカスの一眼レフを次々に出すようになった。いくつかコンパクトカメラを買い換えて使っていたが、やはり写りは一眼レフが勝る。フラッシュがポップアップするニコンF401と35mm~105mmのズームレンズを買って、幼い子供を撮影した。妻の友人がアルバムを見て「(写真の子供の顔が)大きいね」と言っていたらしいが、それは望遠ズームのなせるワザである。
その後1990年に、性能がアップした新製品F601が出たので、F401を下取り交換に出して買ってしまった。ストロボはTTL自動調光、露出はTTLマルチパターン測光になっていた。巻き上げも自動である。形が似ていたので妻には買い替えがバレなかったみたいだ。このカメラはいまだに使っており、子供たちの成長を記録した。さらに新しいカメラが出ているが、買い換えるほどの魅力を感じていない。
勤めてから買ったコンパクトカメラは、ストロボのチャージが速いオリンパスピカソ、1ドル紙幣サイズのフジカルディアトラベルミニ、さらに小型のオリンパスμ(ミュー)、知り合いのカメラマンから貰ったフジの水中カメラなどであるが、壊れたり人にあげたりで、今手元にあるのはAPSフィルムカメラのキヤノンIXYだけである。一方、デジタルカメラは81万画素のエプソンCP-500を最初に使い、以後、フジFinePix4700z、オリンパスC-40ZOOM、リコーCaplioRR1と使っている。

再び、父のニコンF3

2000年夏、父が病床にいるときに、もはや身辺整理が必要だろうと父の机の引き出しからニコンF3やDX-1ファインダーを出すと、F3はモルトが劣化しており、全体的にオーバーホールが必要で、銀座のニコンサービスセンターに持ち込んだ。老練の係員はカメラの番号を見て「ずいぶん早くにお求めになったのですね」と、出てすぐに買ったことを見破った。係員が自社製品を心から愛しているのがわかり、ニコンユーザーでよかったと思った。電池の液漏れがあったDX-1は残念ながら部品がなく、修理は不能だった。そのためヤフオクに1万円で出品してしまった。いい人が落札してくれたのでよかったが、父がその後11月に亡くなって、DX-1を見せびらかした自慢そうな顔を思い出し、父との思い出までをも売り払ったようで、親不孝の息子は心が痛んだ。

振り返れば初めて買ってもらったペンEESといい、ねだりにねだったニコマートFTNといい、カメラの思い出は父へとつながっている。物心ついてからは反発しあうだけの父子だったが、唯一の絆や会話の糸口がカメラだったようだ。父はそれを知ってか知らずかカメラを買ってきたし、晩年は突然パソコンを買ってきて使い方を教えろといった。
病床の父を写したのは最新のデジタルカメラ、FUJI FinePix4700zである。意識不明だったときの映像を小さなモニターで見せると、無言で見入っていた。病室に持ち込んだ雑誌に、ソニーのデジカメプレゼント企画があったのを開いて、いつ退院できるかもわからないのに、「応募しろ」とまで言っていた。「こんなもんで運を使うなよ」と言ったが、もうどこにも運なんてなかった。スマートメディアには、起き上がってようやく歩けるようになった父が、私を安心させるように胸を張って笑っている映像が記録されている。このとき、父と並んで撮りたかったのだが、そう言い出せなかった。もしかしたら、何ヵ月後かに一緒に写せるかとも思った。3週間後、父は治ることなくスマートメディアには葬儀の模様がスーパーCCDハニカム430万画素で記録される。
父の机や蔵書、建築士として描きためた図面の大部分は処分した。都会にはいつまでも残しておくゆとりはない。しかし、オーバーホールから直ってきたニコンF3は父との思い出として永く使っていきたい。

2002/09/14

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