ウルトラクイズはどのようにして生まれたのだろうか。スタッフにはどのような苦労があるのだろうか。まだ、誰も知らないウルトラクイズの誕生秘話と、放送では知ることのできないスタッフの苦労話を、クイズ王が取材してまとめてみた。
ご協力いただいたスタッフの皆様、ありがとうございました。
■ウルトラクイズ誕生
第1回ウルトラクイズがお茶の間に登場したのは1977年10月のことでした。当時のクイズ番組は、パネルクイズアタック25、アップダウンクイズ、メロディアタック・ドレミファドン!、クイズ!タッグマッチ、ベルトクイズQ&Q、クイズグランプリ、ピラミッドクイズ、クイズタイムショック、ゲーム・ホントにホント?などなど。視聴者参加の知識クイズが全盛でした。クイズマニアと呼ばれる人種の活躍も目立っており、新聞や雑誌などにも誰々さんは優勝何回賞金総額ン百万円といった特集記事がよくありました。いわば、戦後何回目かのクイズブームを迎えているころでした。
ウルトラクイズのルーツはそれ以前にさかのぼります。東名高速道路が開通したころと言いますから69年ごろのことです。ある番組制作会社が東名高速道路クイズという番組を企画しました。挑戦者をクルマに乗せ、各インターチェンジでクイズをやりながら先へ先へと行く。インターでは土地にちなんだ問題が出題され、正解者は先へ進み、負けた人はそこで降りてもらう。このような沿線の観光を兼ねた番組が企画されたのです。放送局に提示されたものの、時機が熟していなかったため、結局日の目を見ることはありませんでした。
長い間この案は忘れ去られていました。でもアメリカ建国200年にあたった76年、それにからめた番組企画としてそのアイデアが活かされ「史上最大ジャンボクイズ」として日本テレビに提出されたのです。現在のものとほぼ同じ内容で、羽田空港に向かうバスの中で何人か落ち、飛行機のなかでも落とす。ハワイ、ニューヨークと渡り、建国記念日の7月4日、ホワイトハウス前で決勝戦をし、それを衛星生中継でやろうとまで決まっていました。けれど準備期間が余りに短くその年はボツになりました。 同じ76年、別の番組制作会社であるテレビマンユニオンが「夢と冒険・アメリカ大横断」という番組を制作しました。コカコーラがスポンサーになっていたのでアメリカが舞台となったのですが、この番組はいろいろな経歴を持った老若男女7人の日本人が、キャンピングカーに乗って7つの謎を解きながらアメリカを横断する番組でした。
テレビマンユニオンはこの番組制作を通じて、グループ海外移動撮影のノウハウを学びました。そして前の企画とドッキングさせて、翌77年「史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ」となって実現したのです。
■スタッフのキャスティング
当時としては珍しい海外VTRロケに加え、毎日のように移動を繰り返すロケのため、プロデューサーは海外ロケへ行くスタッフの人選に非常に苦労しました。その内訳は演出スタッフ、カメラマンや音声、VTRなどの技術スタッフ、美術スタッフ、放送作家、現地コーディネーター、ツアーコンダクター、医師、司会者。さらには宿泊や旅費管理の総務担当、全体の進行管理担当、そして審査委員長など、30名近いプロフェッショナル軍団になりました。結果的に「考えられる最高のスタッフ」が集まり、当然ギャラが高いので人件費がかかるのですが、制作費の用意をしてくれました。放送終了後、企画スタッフが他の放送局の人から「どうしてうちの局にこの企画を売ってくれなかったのか」と問われたそうです。しかし、この番組はどの放送局でも構わないという番組ではなく、日本テレビの性格ならではの番組なので、日本テレビにしか売りませんでした。なるほど、ウルトラクイズは開局記念番組にピラミッドを作ってしまった日本テレビならではの番組でしょう。
■オーディション不要の人間ドキュメントに
演出スタッフが制作にあたって考えたことは、まず参加者のオーディションをしないことでした。普通クイズ番組はペーパークイズや面接を行って、ある程度クイズのできる人や明るい外向的な人を選んで出場させているのですが、ウルトラクイズは年齢とパスポートの条件さえ備わっていれば、誰でも参加できるようにしました。なぜなら、ウルトラクイズは単なるクイズ番組でなく、人間ドキュメンタリーにしたかったから。それにこの番組は、知っているやつが偉いんだという従来のクイズ番組に対抗する気持ちも強くて、知識だけではどうにもならない、ハードな部分を強調しました。挑戦していくことによって自分がどう変わっていくか、厳しさを一つ一つ克服していく生身の人間の息づかいはなにか、それをドキュメントしたいとスタッフは考えていましたから、オーディションは不要だったのです。
次に、クイズのルールは単純に、ということでした。単発のスペシャル番組なのですから、ルールの説明に時間を費やすわけにはいきません。そのため第1回では○×、三択、早押しと、三大クイズルールしか行われていません。しかしこの考えはその後変わってきており、今ではウルトラクイズならではのクイズ方法も少なくありませんね。
そして、規模の大きい番組ですから失敗は許されない。企画はいいけどつまらないね、と言われないよう、細かい部分にも気を配ったそうです。
■ロケ地選定の苦心
ロケ地選定にあたっては、当初アメリカ商務省観光局の協力をあおぎました。ロケ地は単に有名観光地ならいいわけではありません。ロケハンをするにあたってスタッフは、次のような項目までチェックしなければなりませんでした。つまり、大型飛行機が発着できるか、周辺状況、方角、交通の便、ホテルからの距離、水や食事の施設、電源の有無、雨天の避難場所、電波障害の有無などなど。国立公園や遊園地の中で日本のテレビ局が撮影するのは、当時としては想像を絶することで「なんでそんなことをするのか」となかなか理解してもらえなかったとか。一般観光客への保険など細かい配慮を条件として、第2回のナイアガラでは3500ドル、第3回のグランドキャニオンでは7000ドルの保証金を積んでようやく撮影許可をもらいました。
それから奇人変人などのゲストを呼ぶにあたっては、他局の番組と出演が重ならないか、撮影場所に連れて来られるか、スケジュールは大丈夫か、本番までに挑戦者に見つからないかなど、これまた苦労のしどおしでした。さらにゲストについては当日にならないと出演が決まらない人もいて、当日その場で問題を作るという綱渡りもあったようです。
それから、ロケ地について面白い話を聞かせてもらいました。一時、アメリカコースとヨーロッパコースの2つのコースを用意して、アメリカは日本テレビ、ヨーロッパはTBSが並行中継、最後の決勝は両局で同時中継するという案がありました。これはTBS側がのらなくてボツになりましたが、実現していたらどうなっていたでしょう。でもこのアイデアは、第10回の北米コースと南米コースに活かされていますね。
■本当に参加者が来るか心配
第1回は新聞などで募集告知がされました。「クイズをしながらタダで海外旅行ができる。勝てばもっと先まで行ける。ニューヨーク決戦で勝ったらさらに素晴らしい賞品がもらえる」というような紹介がされていたようです。
資料を取り寄せた人は約4000人、実際に後楽園球場に集まったのは404人でした。今でこそたったの404人ですが、当時の他のクイズ番組から考えるとすごい数です。
後楽園に通過した80名は1週間後羽田空港に集合させられました。当時成田空港はまだ工事中、海外旅行も羽田から飛び立っていました。
スタッフは本当にあの80名が来るかどうか心配でならなかったそうです。今では前日に日本テレビに集合させ、ホテルに一泊させていますが、朝一番のモノレールに乗らないと間に合わない早朝に、羽田東急ホテルに集合させるスケジュールでした。しかも天気は雨。スタッフはモノレールの駅で首を長くして挑戦者の到着を待ち、大きなカバンを抱えてやってきた挑戦者を見つけ、小躍りして喜んだそうです。実際の参加者は78名で、来なかった2名もキチンと断りの電話がありました。
第1回のビデオを見ると、挑戦者は今より平均年齢が高く30歳台の人が中心。いわゆるクイズマニアも多数いて、挑戦者からしてみれば人間ドキュメンタリーなんか関係なく、あくまで大型のクイズ番組という意識だったようです。そのクイズマニアたちの度肝を抜いたのが、ジャンケンでした。
ジャンケンはスタッフのだれからともなく言い出した企画でした。そして全員が支持した企画でした。クイズにジャンケンという意外性を持ち込む面白さは、挑戦者の悲喜こもごもの表情に充分現れていました。それにスタートの羽田でいきなりジャンケンをしたことは、クイズマニアたちに今後なにが起きるかわからない不安感を終始抱かせ、その後スタッフが常に優位につくことができたのです。
■ウルトラハットはこうして生まれた
ウルトラ名物ウルトラハット。本土に上陸してしばらくしたら、ウルトラハットをかぶる早押しクイズになります。ウルトラファンには一度でいいからウルトラハットをかぶりたいという人も多く、一種の王冠のような憧れを持たれています。
ウルトラクイズは屋外でのロケが大部分ですから、従来の早押しクイズのようにランプがついて誰が最初に押したかを知らせる方法がとれませんでした。太陽光線のほうが強くてどのランプが光っているかわかりませんから。そこで、ランプの代わりに何かが立ち上がるものとし、さらにいろんなロケ地が予想されるので、挑戦者が立っていても座っていても大丈夫な方法として、挑戦者の身体に密着している帽子が考案されました。
最初はハテナマークが下から垂直に上がっていく方式を考えましたが、技術的に無理なので、今の起き上がる方式になりました。第1回は電磁石で固定されていたハテナマークが、ボタンを押すことによって磁石から離れ、バネの力で起き上がる仕掛けでしたので、立ち上がったのを戻すのは挑戦者が手で倒さなくてはなりませんでした。今ではモーターを使っており、起き上がったのをリセットすると自動的に倒れます。
■福留さんの一人二役
普通のクイズ番組は司会者と問題提出者(問題を読み上げる女性)の2人で番組が進行されていきますが、ウルトラクイズではこの役を福留功男アナウンサーが1人で引き受けました。人数のワクが制限されていたのが大きな理由ですが、正反対の2つの役を1人でこなすのは、とても難しいのです。司会者としては時に挑戦者をはげまし、各人の個性をとらえてコメントしなければなりませんが、問題を出し正否を判断するときは、機械のような正確さと無情さを要求されるのです。ましてや当時の福留さんはキックボクシングの中継などをしており、クイズの司会は初めて。福留さんの努力も並大抵のものではなかったでしょう。
挑戦者と一緒に旅をすれば人情がわき、みんなにニューヨークまで行ってもらいたいという司会者の気持ちと、問題提出者としては冷酷に失格を宣言するという、二律背反の条理の中で福留さんは旅を続けることになりました。
■旅行会社が頭をかかえた異常な旅行
ウルトラクイズには終始近畿日本ツーリストのベテランスタッフが、ツアーコンダクターとして同行していますが、この企画を聞いた当初、こんな旅行が本当に可能か半信半疑でした。なにしろ、飛行機に乗る直前まで乗る人の名前がわからない、それも40〜50名もの団体で。どこでだれが帰るかわからない。だれがホテルに泊まるかわからない。こわれやすい荷物を100個も持ってこんな旅をするにはどうしたらいいか、通常の旅行と余りに違う内容に頭をかかえました。
ウルトラクイズの旅では航空券は人数分すべてニューヨークまでにしてあり、まず電話帳から拾ったダミーネームで予約をします。ジャンケンでなんという名前の人が飛行機に乗るかが決まったら、すぐに航空会社のカウンターに走り、名前の書き換えを。ホテルにも名前の変更を連絡します。現地で敗者が決まれば、現地の航空会社のオフィスで、これもダミーネームで予約してあった帰りの航空券の書き換えをする。そしてニューヨークまでの差額分は引換券にして払い戻す。ホテルに戻って、航空会社や次に泊まるホテルに、ダミーネームで入っている名前の変更を電話やテレックスで連絡。これの繰り返しになります。当然これらの用件は通常の業務を越えていますから、相手先はみんないやな顔をします。けれど最近はウルトラクイズの名前が航空会社やホテルに知れており「あの番組なら」ということで理解してくれるとか。最近ではツアーコンダクターもすっかりこの作業に慣れて、特に心配はないそうです。
また、ガックリしている敗者の送り届けもたいへんな仕事で、ロケ地が空港から遠い場所だと、ホテルに戻ってくるのが深夜になることもあります。おもしろいことにだれが落ちるかだいたい予想がつくそうで、次の目的地のホテルにその人の名前を外して連絡しておくと、そのとおりの結果になるとか。
ツアーコンダクターは旅行代理店の人間ですから、撮影のない日は旅を楽しんで欲しいという気持ちでいっぱいです。どこへ行きたいとか、何を食べたいとか遠慮なく言ってください。できるかぎりのガイドをしてくれます。
■毎年こうやってウルトラクイズはスタートする
第1回が大好評のうちに終わり、それから毎年、ウルトラクイズは続いています。
来年もやると決めるのは番組が終わった直後。毎回3月ごろから具体的に始動しはじめます。膨大な量を要する問題は4月ごろから制作スタート。クイズ形式にとらわれず、とにかく問題をたくさん作って、全部で1万問は作ります。1問目の自由の女神問題だけでも100問くらい作り、その中から選びに選んだ問題が出されるのですから、挑戦者が頭をかかえて電話に走るのも無理はないですね。
問題は重箱の隅をつついたようなどうでもいいのは作らず、挑戦者の中の誰かには答えてもらえる問題を出しているつもりです。実際使われるのは1万問の中の1000問ですから、スタッフは水子地蔵と一緒にボツ問題地蔵も作らなくちゃと冗談を言ってました。
アメリカのどこの土地で撮影をするかが決まるのは、6月上旬です。実際のロケハンは7月から行われます。ロケハンで撮影に不向きと分かれば当然変更されます。決まったロケハンスタッフが行くのではなく、何人ものスタッフが手分けをしてあちこちに飛び回ります。ロケ地の決定にあたっては先に述べた条件にあてはまることの他、挑戦者や視聴者の心に残る場所で撮影するよう気をつけているそうです。
ロケ地は常にA地点、B地点と2ヵ所用意しておきます。なぜなら交通機関のスト、天候や交通事情などで撮影が不能になることもあり、代案を常に用意しておかなくてはならないのです。海外ですから万全の準備が必要なのです。例えば第10回の南米コースリオデジャネイロでは、北米コースのナイアガラに対してイグアスの滝でするつもりでした。しかし、航空会社のストと現地の洪水のため、撮影地をリオに移さざるを得ませんでした。
8月になると中旬には後楽園予選が開かれますから、もう毎日会議です。会議で決まった重要事項は頭に入れ、書類は特に用意しないし残しもしないそうですので、挑戦者のスパイがスタッフルームに忍び込んでも何もないから大丈夫だって。
クイズ形式はドロンコありバラマキあり大声ありといろいろですが、どういう形式にするかはスタッフ全員の合議制をとっています。クイズ形式を選ぶ基準は、第一に安全であること、そして実現できるものであること。例えば当初機内クイズの成績が悪い人はパラシュートで落とそうと考えていたんだって。こういうのはボツの例だが、何を考えてんだろ。
クイズ形式を思いついたのはいいけど、本当にできるかどうかの実験を、若いスタッフを実験台にして8月中旬ごろ国内でしています。単にやってみるだけでなく、VTRを撮って絵で見て面白いかどうか、改良の余地があるかを検討します。そこでどの土地でどのクイズ形式をするかが決められます。罰ゲームの中にも日本で実験をしているものもあるそうです。そしてクイズに使う舞台セットはすべて日本で作り、日本から持っていきます。
実験でうまくいっても現地でうまくいかなくてボツになる例もあり、例えば今でこそ有名なドロンコクイズ。あれは第4回が初登場でしたが、最初は第3回で行われるはずでした。海岸に○と×との壁があって、正解ならゴムボートに落ちる、失敗すると海へ落ちてしまうという形式を考えたのですが、ロケハンしたらふさわしい場所がなくて第3回はボツに。翌年ドロンコクイズにアレンジされて、今や推すに推されぬ名クイズになったわけです。
■スタッフの地獄旅
それではスタッフのハードな1日を、時間を追って書いてみましょう。
ホテルで朝4時半起床。ホテルには荷物置き場用の部屋を借りていますから、そこから1時間かかって荷物をバスに積み込みます。なにしろセットや機材、個人の荷物を含めて100個を越えるため、これだけでたいへんな作業になります。田舎ではポーターが一人しかいないホテルもあり、そんなときは目もあてられません。機材は高価でこわれやすいものが多いため、アシスタントディレクターが見張りをすることも。ようやく軽く朝食をとって、6時にはクイズ会場であるロケ地に向けて出発します。移動中のバスでも寝るわけにはいかず、打ち合わせです。その間福留さんは問題のどこを強調して読むか、どこで区切るか、誰がどう答えたらどのようにフォローするかなど、問題チェックをしています。
場所にもよりますが、8時ごろロケ地に到着。スタジオならある程度の設備はすでに整っていますが、何もない屋外でやるのだから一からセッティングしなくてはならず、煩雑さを極めます。電源を引き、VTR機材をつなげる。挑戦者が座るテーブルを組み立て、ウルトラハットやマイクをセット。もちろんテストが繰り返されます。舞台装置が大掛かりであれば、もっと時間はかかり、全部で2時間から2時間半も準備に費やします。一方で別のスタッフは会場責任者やゲストと打ち合わせをしています。英語でするのでそれだけでもたいへんです。
挑戦者はセッティングの分だけ遅く出発できるので、本当は挑戦者のほうが楽なのです。10時ごろからクイズが始まって、その時間が1時間から1時間半。正午ごろすべてが終わって撤収作業に入ります。しかし当然罰ゲームがありますから、スタッフのある班は罰ゲームの撮影に向かいます。罰ゲームの撮影は、敗者が本当に罰ゲームに気持ちを同化するまで行うため、3時間くらいかけます。それが終わって敗者を無事空港まで送り届け、ホテルに戻るともう夕方です。
一休みする暇もなく翌日の打ち合わせ。夕食をとって7時からは全体会議です。会議ではその日のビデオをチェックし反省をしたり、残った挑戦者の個性に応じて問題内容を組み替えたりもします。明日の注意点を確認しあい、9時に打ち合わせが終わるスタッフもいれば、シャワーを浴びる間もなく次のロケ地へ先行打ち合わせに飛ぶスタッフもいる凄まじさです。
■困ったことはあまりないけど
10年間、事故らしい事故もなく無事撮影が終了していますが、それでも小さな困ったことは起こります。まず問題が足りなくなること。1万問作って1000問に厳選した問題も、挑戦者のできが悪くてパスや誤答が積み重なると足りなくなります。そんなときは急遽現地で作ったり、日本から航空便で取り寄せます。また、体力クイズは予想以上に時間がかかり、あとのスケジュールが気になることも。
それからケガや病気。第5回ではグァムのドロンコクイズで挑戦者が首をひねりドロの中で動けなくなる事故があって、さらに見本を見せると飛び込んだプロデューサーまでもが、同じく首をねじってドロまみれで失神する事故がありました。第7回ではカナダで撮影中挑戦者が結石になって日本に帰りました。もしも挑戦者の誰かが欠けても撮影が続行できるように、ニューヨーク直前まで1人余分に行かせているのにお気付きですか。普段は1人しか落ちないのに、直前の都市では2人まとめて落ちているでしょう。また、福留さんの健康がすぐれないこともあり、第7回・第8回では石川牧子アナウンサーが、第9回以降は日高直人アナウンサーが、万一の場合は代役できるよう同行しています。
スタッフが今までで一番たいへんだったロケ地は第8回のバハマ。人類初の海中早押しクイズで、スタッフは3時間も潜っていたため、カメラマンなどは潜水病になりかけました。
それから思わぬハプニングもありました。第10回のグァム行きの飛行機は○機と×機の2機でしたが、○機にサイパンから乗り込んだ別のお客さんが、機内で亡くなってしまったのです。グァムの病院へ移送される病人で、苦しんでいるため前の席にいた挑戦者と席を替わったりしているうち、グァム到着直前に事切れてしまいました。つきそいの家族は号泣するし、かといって○機は勝者の乗っている飛行機なので喜びのシーンを撮らなくてはならないし、本当に弱ったそうです。
■絶賛のウルトラクイズ
ウルトラクイズには多くの賛辞が寄せられましたが、中でもアメリカの20世紀フォックステレビ社が全米ネットのテレビ局NBCを通じて、アメリカ版ウルトラクイズを作ったのは特筆に値するでしょう。今まで日本のクイズ番組はアメリカのマネばかりで、文化的には後進国でした。ところが81年、NBCの朝のニュースショーで紹介されたウルトラクイズに興味を示した20世紀フォックスの副社長は、さっそく日本テレビからビデオを取り寄せて見てみました。そして「調和のとれた番組だ。クイズの娯楽的要素と、行く先々の風物を紹介する情報の要素、そして勝者と敗者の人間ドラマなどがうまく溶け合っている」と絶賛。アイデアをそのままいただいてさらにスケールアップ、「世界一周ウルトラクイズ」として全米で11月に放送されたのです。
内容は1000人の参加者がロスのドジャーズスタジアムをスタートとして、ギリシャ、ローマなどを回るツアー。優勝者には10万ドルが進呈されました。準優勝は日系人で決勝は生中継されたそうです。しかしこれを見たウルトラスタッフの感想は、アメリカの挑戦者は日本のようなひたむきさがなく、みんなが視聴者受けだけを狙ったショーマン過ぎた。人間の部分が出ず、人間ドキュメンタリーになってなかった、という批判的なものでした。さらに司会者がコメディアンで自分たちが目立とうとしたのが鼻についたそうで、向こうにはトメさんがいなかったんだよなー、としみじみと洩らしていました。
その他、ウルトラクイズは世界各国のテレビで紹介されており、ロンドンに住む日本人がテレビから日本語が聞こえるのでよく見たら、ウルトラクイズの紹介をしていたとか。
さらに87年は白井審査委員長が、日本のテレビ界のアカデミー賞と言われるギャラクシー賞をウルトラクイズで受賞。クイズ番組で取るなんて珍しいと、スタッフ一同喜んでいます。
■これからのウルトラクイズ
ウルトラクイズはもうやめることはできません。視聴者一人一人の頭の中にウルトラクイズのイメージができあがっており、日本テレビを離れて一人歩きをしている雰囲気さえあります。スタッフは今後のウルトラクイズについて、もっと壮大にやりたいと語ってくれました。例えば、キリマンジャロの山頂で、天安門で、モスクワの赤の広場で。しかも生活密着型の、観光名所以外の現地の人々の生活に溶け込んだ場所で行いたいそうです。そのうち、市場や家庭の居間に入り込んでクイズが行われるようになるのではないかな。
一方で、スタッフは番組開始から10歳も年をとってしまったけれど、挑戦者は毎年若い人の活躍が目立ちます。そのギャップをひしひしと感じてもいるようです。確かに第1回のビデオと第10回のビデオを見比べると、福留さんは第1回では「ワルガキ」という感じ。それが第10回ではすっかり貫祿がつき、挑戦者を自在に操っています。徳光さん高島さん石川さんも昔は若かった、今も若いけど。もちろん挑戦者の顔ぶれも歴然と違い、おっさんぽいのばかりがいた第1回と、十代ががんばる昨今。クイズ形式のハードさは見ればわかりますが、ナレーションのテンポすらアップしています。
ウルトラクイズはある意味では挑戦者とスタッフの闘いでもありますから、今後スタッフのおじさま方には、ますますがんばっていただくしかありません。
それから挑戦者の皆さんへのメッセージとして、参加したからにはクイズの一回一回を楽しんで欲しい。勝ち負けは二の次。出て、見て、とにかく楽しんで欲しい。クイズマニアも歓迎する、いい賞品はもらえないけど、ぜひ来て欲しい。ということでした。
スタッフ曰く、総論すれば挑戦者はロマンチストなのです。1ヵ月もの間、家庭も仕事も学校もおっぽり出してウルトラクイズに挑戦する。夢を持っているからできるのです。スタッフは彼らを通して生身の人間を描く。生きているから感じる、喜び哀しみを描く。それをテレビを使って伝える。テレビを見た人の中で一人でも多くの人がそれに共感し、自分の生き方を見つめ直してくれれば、番組を送り出す役のスタッフとして、なによりも嬉しいことなのです。
ウルトラクイズ10周年を記念して、私たち10人のクイズ王から何か「お返し」ができないかと考えたのは今年の3月でした。その一つの形がこの本になりました。
クイズ王それぞれの感じたウルトラクイズを素直に伝える。ウルトラクイズのテレビに写らなかった部分を、読者すなわち視聴者の皆様に伝える。それによって少しでも多くの人がウルトラクイズに共感を感じて参加してくださるのなら、一歩でも先の都市へ行っていただくことができるのなら、私たちにとってこんな喜びはありません。
この本を書くにあたって、私たちはもう一度自分たちのビデオを見直し、あのときの気持ちを整理してみました。そこで感じたのは、たいへんおこがましいのですが、やはり「勝負は勝たなければウソ」ということです。「敗者が主役」なんて詭弁にすぎません。人生は勝たなければ何もならないのです。あのとき負けていれば、今の私たちもこの本も、この世に存在しなかったのです。
ウルトラクイズは人生の縮図とも言います。人生は勝たなければウソです。皆様も、仮にウルトラクイズに負けたとしても強く生きて、自分の人生には勝ってください。
今年、そしてこれからもずっと、後楽園でお逢いできるのを楽しみに。
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